博多招福菓子じょかなん → 除火難(火難除け) → 除禍難(禍難除け)
博多古渓水
家ごとに黒豆ご飯を炊いた「博多古渓水」茶聖千利休が秀吉の怒りに触れたのは天正19年(1591年)2月のことです。利休さんの木造を山門に掲げ秀吉激怒の発端を作った京都大徳寺の「古渓和尚」も筑前藩主小早川隆景に身柄預けとなり博多に流されました。 和尚は庵を結び博多の人々と親しみながら禅と茶に二年半を過ごしました。慶長三年八月、秀吉死没。許されて葬儀の導師を務めることになり京都へ帰る前のこと「皆の衆、世話になった、さらばじゃ!」別れの日、和尚が杖を地上にトンと突き立てると、あら不思議、清らかな水がコンコンと湧き上がる。 これぞ 名付けて 古渓水。 現在の福岡県福岡市博多区奈良屋町のあたり戦前まではお堂の脇に清水が沸きこれを汲み持ち帰って家の周囲に振り掛けておくと「火難を除ける」と言われ広く信仰心を集めました。
毎月二十一日は古渓さまの日 (現在のお札は5月17日になっている) 一帯の家々では黒豆ご飯を炊き「はつやまとう」と呼ぶ小さな焼餅団子を供え、火難よけのお札 と一緒に配って歩いたそうです。古渓さまのお堂は昭和二十年六月福岡大空襲の猛火ばかりは防ぎきれず炎上しました。戦後、福岡市当局が進めた町名変更があり、由緒ある「古渓町」も消えそうだと知り、えッ!?と腰を浮かしたのは 篤学の史家橋詰武生さんでした。(故人)「冗談じゃない苦境に落ちた古渓和尚を博多勢が保護した史実は文献になくそれを証明するのは「古渓町」という町名だけ。と説かれましたがすでに遅く古渓町の町名は消え 奈良屋町 になりました。町名が変わって50年経ちますが今でも古渓さんを偲び 5月17日 にお経があがります。以上 父(久幸)が遺した資料より
1966年(昭和41年)古渓町から奈良屋町に町名替えになってから生まれた丙午の私、吉積佳奈は縁あって母方の家業の質屋業を母から引き継ぎ、商いに携わらせて頂いております。人様の大切な物をお預かりする質屋の私が、居るだけで火事になる丙午(ひのえうま)というのは、迷信だと分かっていても、気になっていました。丙午の年は明治時代も、昭和41年も出生率が低いのです。令和時代の丙午の年(2026年)はそんな年になって欲しくない。迷信を気にもせずこの世に産み育んでくれた父や母やすべて方に感謝を込めて「博多招福菓子じょかなん → 除火難(火難除け) → 除禍難(除禍除け)」のお菓子を生み出すのが私の長年の夢でした。コロナ禍で自宅に居る時間が増えた今年は試作する時間に恵まれました。免疫力を高めるのに腸の調子を整えることも大事なので体にも心にも良いお菓子を作りました。
どうぞ、ご賞味ください(^^) 株式会社ハルマチ 博多じょかなん 吉積 佳奈